鉄道を知ろう・考えよう

「知ってるのに分からない」を楽しむ

「ネットで政治を語ること」について 

突然すぎるにもほどがありますが・・

僕はネットで政治のことを語るのが好きではありません。(「無関心」ではなく、はっきりと嫌悪します)

だいたいの人はそうかもしれませんね

 

 

理由は二つ。

 

1.ネットは狭い

珍しい意見ではないようですが、「へ?」ってなる人もいるかもしれませんね。

 

学校などでSNSの指導をするときなんかはむしろ、インターネットは世界中とつながる広い世界であり、そこに何かを発信することは楽しいけれどもその分責任と危険が伴うことがある、そう説くことが多いです。

 

 

ですが、インターネットのもつ性質を考えると、むしろインターネットは「狭い世界」であるということができます。

※学校のSNS教育を批判したいわけではありません。あくまで「ネットは広い」という思い込みの原因を僕なりに説明しただけです。SNS教育の目的はネットの本質を探ることではありませんし、当然のことながら、ネットでの振る舞いは現実と同じかそれ以上に注意するべきです。

 

 

ネットの特徴

それをひとことで表すなら「狭く深く」でしょうか。

 

例えば、僕もよく利用するYouTube

 

”YouTuber"という言葉も割と当たり前になってきましたが、テレビで「登録者○○万人の大人気YouTuber!」と紹介されている人をテレビで初めて知るということがかなりたくさんあります。あんなにYouTube見てるのに。

 

逆に、「鉄道系YouTuber」なる人もいて、その界隈ではかなり有名、という人でも、一般的な認知度はほぼゼロだと思います。

 

 

・・YouTubeの「おすすめ動画」の基準はその人の好みです。つまり、例えばA君が鉄道の動画を多く見る人なら、YouTubeを使えば使うほどA君には鉄道の情報だけが入り、逆にそれ以外の情報はカットされます。

 

 

これは当然YouTubeに限らず、ほぼ全てのインターネットサービスに当てはまることですので、A君にとっての「ネットの世界の人々」は、ほとんどが鉄道ファンである。ということになりやすいのです。

 

 

しかし同時に、同じネットの世界には流行を追い求めるイマドキ乙女もいて、彼女たちの「ネットの世界」に、A君が入っていくことはほぼないでしょう。

 

 

まとめると、1人の人間の「ネットの世界」にはその人と同じ趣味・嗜好の人だけが集まってきて、それ以外の人たちは入ってきづらい。=「ネットの世界」は”狭い”のです。しかもその”狭さ”はネットを使うほど加速します。

 

 

ただしこの特徴は、趣味を楽しむうえではむしろ好都合です。同じ趣味を持つ人たちがそれぞれのバックグラウンドから放たれる情報に触れ、その趣味を深めていくことができるからです。僕がネットで鉄道のことをつぶやいたりしている理由もここにあります。

 

 

 

 

しかし、この特徴を政治の世界に持ち込むととんでもないことが発生します。

 

また具体例。A党を支持する人、Bさんがいるとします。BさんはA党のTwitter公式アカウントをフォローし、A党支持者(または同じような考えの人)としか交流しない。そうすると他の考えをもつ人たちの意見は入ってこず、ますますA党を支持するようになる。その結果、A党以外の考えは受け入れられず、それ以外の人たちの考えを攻撃するようになる(過激化する)ようになる・・

 

 

ネットの特徴は”狭い”こととその”狭さ”が加速していくこと。今のTwitterなんかで見る所謂「ネトウヨ」と「パヨク」のしょーもない過激な言葉のぶつけ合いは、その人たちの人間性以外のところにも原因はあると思っています。

 

 

そもそも政治における”理想”とはまだ見つかっていないものです。(「民主主義」もまだ完ぺきではない。ただこれまで行われてきた手法よりは遥かにマシ。)だからこそ、「多様性」が何より重要なのです。

 

 

つまり、理想の為政者(政治家)などいないし、ある特定の政党・政治家の言っていることが全て正しいことなどあり得ない。当たり前なことが、ネットの「狭さ」によって見えなくなっていきます。

 

 

2.議論において大事なこと

まずネット関係なく、意見を話す上で重要なことってなんでしょう?

 

ディベートの大会などでは相手を説き伏せること(いかに説得したか)や論の優劣によって勝敗が決められることがありますが、僕はそれが必ずしも正しいとは言えないと思っています。

 

 

理由は、

 

ディベート大会のような勝ち負けの議論では自分たちの意見を見直す機会がないので、自分の意見が正義だと信じて疑わなくなってしまうこと

 

 

もうひとつは、やはり勝敗の世界では、戦う相手は「敵」なので、勝ち負けの議論では議論の相手が「敵」になってしまうことが挙げられます。

 

 

自分たちが如何に「まとも」か、相手が如何に「おかしい」かのみを叫び続け、結果見るに堪えなくなっている議論、国会中継とかでみたことありませんか・・?

 

 

ただ、政治家にそんな醜い議論をさせているのはその支持者たちだったりもするんですよね・・

何党の誰が総理大臣に相応しいかなんかよっぽど重要で根深い問題です。

 

 

では、理想の議論とはなんでしょう?

僕が思う議論のゴールは、お互いにとって一つ進歩した結論に至ることです。

 

どういうことか。

・A君はカレーが食べたい。

・B君はとんかつが食べたい。

ものとします。

 

このとき、大切なのは、「カレーかとんかつか」ではなく、「カツカレー」というお互いが納得でき、一歩進んだ考えにいたること、なんですね!

 

 

じつはこれとよく似たことを高校の倫理で習うんです。それがヘーゲルの「弁証法」。詳しくはGoogle先生にお任せします。。

アウフヘーベン」とかのやつ・・

弁証法的議論とでもよびましょう)

 

そしてこの弁証法的議論を実践するには「意見の違う相手へのリスぺト」、「相手の立場に立つこと」とても重要なんです。

 

議論する相手は、説き伏せるべき敵ではなく、ともに進歩するための仲間、なんです!!

 

 

 

話を元に戻しましょう。ネットという環境は弁証法的議論をする場として適切なのでしょうか?

 

 

まあ、多くの方が「否」と答えるでしょうね・・・

冒頭で、学校のSNS教育について触れましたが、そこではこんなことが教えられたりもしています。

 

 

ネットという環境は相手の顔が見えない。だから軽率な悪口を書いてしまいがちだけど思い出して。相手も人間だよ。」と。

 

最後に

ネットで政治を語るのが好きでない理由、少しでも伝わっていることを願うばかりです。

 

僕がなぜ突然こんな記事を書いたのか。

COVID-19の感染拡大に伴い、「外出自粛」が叫ばれるようになりました。

 

ネットも例外ではなく、多くの人たちが自粛を呼びかけ、政治的なことを語る人も機会も増えています。

そして中には自分と立場の違う人たち(働かなければならない人、意見の違う人、外国人 etc..)への悲しい罵りも起きています。

 

特殊な状況だからこそ当たり前なことを再確認して欲しい。そして自分でも整理したい。

 

時間のあり余った人の行きつく先です。。汗